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そよかぜは、放物線を描きながら、まだ見ぬ世界をもとめて、吹きわたる。
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共感をベースにした会話が苦手だ。「わかる」と言われたところで、本当にわかってもらえているのか疑問である。そもそも他人の感情はその人のもので、共感覚の持ち主でもなければ相手とまったく同じ感情をもつことなんてできない。たとえば、ペットを亡くして悲しんでいる人を前にしたとき、自分も同じ経験をしていれば「その気持ちわかる」と思うだろう。けれども、そのときの「わかる」はあくまで自分の経験にもとづく悲しみであり、目の前の人の悲しみそのものではない。「相手の気持ちがわかる」というのは幻想であり、思い込みにすぎないのだ。

共感を重視する傾向は、自分と異なる他者を排除する危険性もはらんでいる。「共感できるかどうか」だけで人や作品を判断すると、受け入れられるものは極端に少なくなるからだ。多様性の時代だといわれる昨今、共感を主軸にしたコミュニケーションは時代に合わなくなってきているのではないだろうか。

「人間は異なるのが当たり前」という価値観を前提に、コミュニケーションを図ろうとするのが対話だ。ここ数年あらゆる場所で対話の必要性が叫ばれており、学校教育でも数年前から「主体的・対話的で深い学び」を軸とする教育への転換が図られている。

対話にはいろいろな定義があるが、わたしは「向かい合う人の言動をヒントにしながら、その人の“核”を理解しようとする試み」だと定義している。相手を理解しようとすることこそが対話であるから、共感する必要はない。むしろ「わたし」の価値基準を軸にした他者理解は対話を阻害する。

たとえば、部下から「部長の考えには賛成いたしかねます」と言われたとき、思わずカッとなって「失礼だ」と思ってしまう。これは「目上の者を敬うのは当たり前だ」という価値基準を常識だと思い、下の人間が意見を言うなんてとんでもないと考えているからだ。このように自分の信念や常識、思い込みにとらわれていると相手の真意に気づくことはできない。それは双方にとってとても不幸なことではないか。

世の中が「対話ができる人」であふれれば、自分と違うからといって切り捨てられる人はいなくなる。対話なくして多様性は生まれない。

マリエ・アントワネット

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