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そよかぜは、放物線を描きながら、まだ見ぬ世界をもとめて、吹きわたる。
AI技術の発達が著しい。AIの苦手分野だった言語処理能力もだいぶ上がり、最近では文字が読めるのみならず、文章から文脈まで読み取れるようになったのだという。一昨年に『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(新井紀子 著/東洋経済新報社)という本がベストセラーになったこともあり、読解力こそ人間の専売特許であると言われていたが、いまでは読解力ですら優位を保てるかどうかあやしくなってきた。

だからといって臆することはない。現時点でAIに人間の感情を読み取る力はないからだ。だからこそ、あらかじめプログラミングされた論理的な会話には対応できても、AIに人間の心の機微や場の状況、物事の背景などを読み取ることはできない。感情という壁を超えようとあらゆる研究が行われているようだが、この壁を超えるのはそうたやすいことではない。

このAIのコミュニケーション能力は日本人の英語力とどこか似ている。日本では長いあいだ読解中心の教育が行われてきたこともあり、「読めるが話せない」が定説だった。とはいえ、さすがに問題意識を感じたのか、日本の英語教育もだいぶ変わってきている。

現にいままでの読解中心から「聞く」「話す」「読む」「書く」の英語4技能習得型の授業へとシフトが進んでいる最中だ。数年前に行われた英語力調査の結果をみるかぎり、「話す」能力が数年で格段にあがるとは考えにくいが、10年後、20年後には日本人の英語力が大幅にあがっている可能性はおおいにある。

しかし、いくら英語力があがったとしても、簡単には超えられない壁がある。異文化という壁だ。日本人にとってはなじみの深い禅の思想や「わびさび」の感覚を外国人が理解できないように、日本人が異文化を理解するのもまた難しい。

宗教なんてその最もたるもので、宗教偏差値の低い日本人が外国人の宗教観を理解することはできない。つまるところ、それは「相手の育った文化的な背景を理解したうえでの会話はできない」ことを意味する。知識や論理をもとにした表面的な会話はできても、感情を介した会話はできないAIのように。

AIのコミュニケーション能力と日本人の英語能力、どちらが先に向上するのだろうか。いずれにしても、両者ともにある程度のところまでは進めても、決して先には行けない領域がある気がしてならない。

マリエ・アントワネット

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