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そよかぜは、放物線を描きながら、まだ見ぬ世界をもとめて、吹きわたる。
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昨年来、英語でインタビューをする機会が増えた。通訳を間に挟むことができれば、それにこしたことはないのだが、たいてい自分で通訳兼インタビュアーをこなしている。わたしはいわゆる帰国子女ではないし、ハーフでもクオーターでもない。ただ、外国人とのコミュニケーションに気後れしない性格というだけの、ふつうの日本人である。

英語を習い始めたのは中学生のときだから、これまたごくふつう。特別に英語ができた優等生でもなければ、大学受験では浪人も経験した(もっとも、英語以外の科目が追いつかなかったせいでもある)。そんなところからスタートしたわたしが、とりあえずのところ、英語でインタビューをこなせるようになったのには、もちろん訳がある。

英語は「テキトーなところで割り切って次へ進む」ということだ。日本語だって、相手が何を言っているのかよくわからないときがある。聞き取れていないのに、適当にあいづちを打っておいて、あとから話の筋を追いかけて理解する、ということはよくある。英語も同じだ。言葉のコミュニケーションにいちいち完璧を求めないことで、返って相手は気持ち良く話しができる。だから、私の英語インタビューは、日本語と変わらず、相手の本質にたどりつく。と、思っている。

問題は、だんだん相手が何を言っているのかわからなくなってくることだ。はじめのうちは、相手もこちらのたどたどしい英語に気を遣って、わかりやすい言葉で話してくれる。それが、だんだんとうちとけて、こちらの質問が的を射る確率が高くなるにつれて、気分よく話しはじめる。それはそれでありがたいのだが、ネイティブの表現やスピード、特に、英語圏は広いので出身地域によって訛りや方言があって、正直なところ追いつけない。日本語だって、東京育ちのわたしに山形弁はわからないし、ウチナーグチだって外国語のようなものだ。ようするに、英語のスキルだけではいずれ限界がやってくる。

英語という国際公用語を通じて異文化交流ができる。外国人と仲良くなることはできるかもしれない。しかし、異文化という壁を前にして、異なる言語を持つ相手を理解することは、おそらく、できない。だとすれば、お互いに何を言っているのかわからないまま、ニコニコしているのが一番いい。勘違いのスキルとでも言おうか。そして、その勘違いを恐れる必要はない。なぜなら、相手の本心は、言葉ではなく、いずれ行動で示されるのだ。

H・ヒルネスキー

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